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松本 良順(まつもと りょうじゅん)

現代における日本の医学会でも知らない人が多いのかもしれませんが、日本の近代医学の土台を築いた人物として忘れてはならない1人が、「松本良順」です。
幕末まで受け継がれてきた日本の医療を誰よりも知りながら、日本よりも先行している西洋の医学を吸収し、日本における高度な現代医学を確立するための最も重要な役割を担ってきました。その姿はまさに、先見性によって、幕府と明治新政府をつなぐ役割を担った勝海舟のようでもありますし、ことさら医学においては、それ以上の存在であったと言えるでしょう。

1832(天保3)年、江戸で生まれた良順は、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父である佐藤泰然の下で助手を勤めました。1849(嘉永2)年、幕府奥医師(=幕府要人の専門医)であった松本良甫の婿養子となり、自らも幕府を代表する医師になるために、学びを深めていきます。

幕末という時代ゆえに、西洋の医学を積極的に取り入れる必要があると感じていた良順は、長崎で西洋医学を教え、またそれを医療として実践している場所があることを聞き、自らその生徒になることを志願します。それが、その後の良順の人生に影響を与えたポンぺ(=ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト)との出会いです。
オランダ軍の軍医であるポンぺを迎えて開校したこの『医学伝習所』が、現在の長崎大学医学部の出発点とされており、同大医学部の校是には、ポンぺが残した言葉である、

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」

が刻まれています。
ポンぺは西洋の医学や医療を教えるだけでなく、こうした医療人としての使命感を日本に植え付ける役割も果たしました。
このポンぺの授業を、各藩の藩医たちに学ばせることができるように、システムを構築したのが良順でもありました。
このことが、新時代にふさわしい医学・医療人を育てる上で、大きな影響を及ばしました。

なお、長崎の人たちや全国の幕末維新の歴史愛好家らに語り継がれているエピソードとして、料亭花月の床柱に「刀傷(かたなきず)」があり、これは、坂本龍馬が良順と訪れた際につくったものだと言われています。
『医学の前には敵も味方もない』というのが良順の信念であり、実際に、新選組の近藤勇らとも親交がありました。一方、龍馬から見ると、多くの同志たちを殺していた新選組は敵でしかなく、龍馬からすると許すことができない存在であったことは明白です。
もしかすると、そうしたお互いの信念について話す中で、意見の相違があり、龍馬に“ぶつけようのない怒りや感情”が生じ、酒の影響も加わって、思わず刀を抜き、床柱を切りつけた、という展開があってもおかしくなさそうです。

また、良順は幕府の医療を担う要職にあったとして、明治新政府がスタートした混乱の時期に投獄され、自分の生命が保証されるのかさえわからない時期を過ごしました。
良順のすごさは、そのような激動の時代の中にあっても、医学・医療人としての自分自身を見失わず、日本のあるべき近代医学の姿を思い描きながら、そこに対して自分ができること、やるべきことに真摯であり続けたことでしょう。
1870(明治3)年春、投獄から解放され、一介の町医者として新たな一歩を踏み出していた良順のもとに、山県有朋が訪れ、軍の医療を全般的に見てほしいと懇願します。

しかし、薩摩藩や長州藩出身者が政府要職の大勢を占める明治新政府に対し、幕府への忠誠心が未だ消えきれない良順には大きな葛藤があったようです。すぐに前向きな返事をしない良順に対し、「この人しかいない」と決めていた山県は「役所に出仕せず、用がある時に私の家に来てください」と話しながら、良順からの了承を取り付けたようです。

「医学・医療人として国に奉仕する」

この揺るぎない信念のもと、国の新しい体制に対する心の距離感が縮まるにつれ、政府の良順への信頼もさらに厚くなり、1873(明治6)年、初代「軍医総監」を任ぜられます。
実は日本の医学・医療の近代化は、富国強兵により列強諸国に追いつこうとした『強兵』の部分と無関係ではありません。
けが人の発生や病気が蔓延しやすい軍人たちへの医療を強化する『強兵』は、日本が西欧諸国に追いつく『富国』と直結する問題だと認識されていました。それゆえ、軍の医療の進化が、日本の大学における医学・医療の発展に恩恵をもたらし、大学の医学・医療の発展が民間医療に発展をもたらすという構図がありました。

また、良順が軍医総監を降りた後も、彼が指導した人脈たちが軍医総監に推挙され、日本の医学・医療の牽引役を担うことになります。

当たり前のように見える現代の医学・医療の背後には、2つの時代に仕え、それらをつなぎ、近代国家の医学・医療の基準にまで引き上げた良順の足跡が多く残されています。

(良順の言葉)
「僕は朝敵の名ありて、天恩一死を赦されたる以来、日なお浅く、刑余の身何ぞ顕職を汚すことを得ん」
 ~松本良順の自伝より抜粋。官職への就任を依頼しに来た山県有朋に対し宛てた言葉~
<関連する場所や組織>
崎大医学部
順会館
順天堂

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