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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

日本の近代化の拠点となった長崎は、日本近代化に貢献した多くの外国人が活躍した場所でもあります。その中でも、多く耳にする外国人の1人が「シーボルト」です。

シーボルトの正式な名前は「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」といい、1796年、ドイツのヴュルツブルクという町で、医学者の家に生まれました。ヴュルツブルク大学医学部に入学し、医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学びました。大学を卒業したあと、近くの町で医者として働いていましたが、見知らぬ国の自然を勉強したい思いを抑えられず、そのころ世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医となりました。

シーボルトは、オランダの命令で日本へ行くことになりました。それもただの医者としてだけではなく、日本との貿易のために日本のことについて調べるようにも命じられていた、されています。

当時、日本に来た外国人は、「出島」から出ることができませんでしたが、シーボルトはすでに優れた医者として認知されていたため、長崎の町に出て病人を診察することを特別に許されていました。

長崎に来た翌年、長崎の鳴滝(なるたき)にあった家を手に入れたシーボルトは、「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えます。塾生たちはその後、医者や学者として活躍しています。

1826(文政9)年、シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に同行しています。当時の日本では、外国人が日本の国を自由に旅行することを禁止されていましたので、シーボルトにとって日本のことを調べる絶好の機会でした。旅の途中で植物や動物の採取をしたり、気温や山の高さを計測することなどもしています。また、多くの日本人が病気やけがの治療法や西洋の知識を、シーボルトに教わりにきました。

江戸では、将軍や幕府の役人にあいさつをしたり、多くの医者や学者に会ってお互いの知識や情報を交換したり、日本研究に役立てるための品物をもらっています。

しかし、順調に見えたシーボルトの日本での活動は、突然、転機を迎えます。それが、「シーボルト事件」です。これは、シーボルトが日本調査のため集めた品物の中に、日本地図や将軍家の家紋である葵の紋付きの着物など、そのころ日本から持ち出すことが禁じられていたものがあったからです。長い取り調べのあと、関係があった人びとは処罰され、シーボルトは国外追放(2度と日本に来てはならない)を申し渡されます。

シーボルトは、生徒たちに別れをつげて、オランダに帰国しました。ヨーロッパに帰ったシーボルトは日本で集めた資料や知識をもとに、日本についての本格的な研究書である『日本(NIPPON)』や、日本の植物・動物を紹介する『日本植物誌(Flora Japonica)』『日本動物誌(Fauna Japonica)』などを書いて出版し、ヨーロッパに日本研究の流れをつくり、後の“日本ブーム”の起源になります。また、日本の植物を栽培し、ヨーロッパに普及させたことでも知られています。

なお、このシーボルトの日本からの追放の裏には、悲しいストーリーがありました。シーボルトは、長崎の女性・楠本たきとむすばれ、彼女を「オタクサ」と呼んでいました。やがてシーボルトは、はじめてみる美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり 「ヒドランゲア・オタクサ」と名づけ、『日本植物誌』に掲載しました。

2人の間には1827(文政10)年、娘・いねが生まれています。いねは父と同じ医学の道を志し、石井宗謙・二宮敬作・ポンペらに医学を学び医師として活躍しました。

シーボルトが日本を去って30年後、国外追放が解かれ、1859(安政6)年、再び日本に来ることができ、娘・いねや当時のかつての門人らと再会を果たします。

長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちと交流しながら日本研究を続けました。また、幕府に招かれて、江戸でヨーロッパの学問を教えています。3年後、再び日本を去り、1866年、ドイツのミュンヘンにて、70歳で生涯を終えました。

また、名女医となった娘・いねは、長崎や東京で開業し、1873(明治6)年、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となり、出産に立ち会っています。その後、1903(明治36)年、東京で亡くなりました。

日本とヨーロッパの架け橋となったシーボルト。その功績は、日本医学の近代化にとどまらず、日本研究の種をヨーロッパに落とし、日本とヨーロッパの距離を格段に縮めました。

さらに、現在とは比較にならない偏見の中で、「日本での国際家庭」となり、30年間、家族が離ればなるという悲哀にも見舞われました。

シーボルトは、医学や日本研究者として多大な貢献をしただけでなく、“先がけた国際家庭”として時代の荒波にのまれながらも、日本の家族への愛情を絶やすことがなかったその姿勢にも、心打たれるものがあります。

交流都市である長崎を象徴した人物である「シーボルト」。私たちはもっとシーボルトやその家族について深く知る必要があるのかもしれません。

(シーボルトの言葉)
「成人の域に成長した博物学研究への特別な愛好心、この偏愛こそ、私を他の大陸に遠征させる決心をさせたものでした。」
(シーボルトが恩師に宛てた手紙より翻訳)
<関連する場所>
シーボルト記念館
シーボルト宅跡
シーボルトハウス(オランダ)

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