2008(平成20)年に、ノーベル化学賞を受賞した下村脩博士。日本ではあまり知られていなかった同博士やその業績を、ノーベル賞受賞以後に知ったという日本人も多かったのではないでしょうか。
ウミホタル・オワンクラゲなど発光生物の「発光メカニズム」を次々と解明し、『緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と開発』により、ノーベル賞を受賞した下村博士の研究は、現在では、医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼしています。
そのように、下村博士の研究が医療界にも大きな影響を与えていることを考えると、ノーベル賞受賞は当然の結果とも言えますが、それ以上にすごいのは、同博士がもとは旧帝国大出身ではなく、長崎大学薬学部の前身であった「長崎医科大学附属薬学専門部」の出身であること。長崎で原爆も体験し、研究者を目指せるような環境ではない中から、米国のプリンストン大学などの上級研究者としての立場をつかみ取っていったところにあります。
武田薬品工業の就職試験に落ちた下村博士は、長崎大学薬学部の安永峻五教授の下で実験実習指導員を4年間務めました。その安永教授の紹介で、名古屋大学のある教授のもとを訪れようとしたところ、目当ての教授が不在で大学におらず、代わりに応対してくれた有機化学の平田義正教授が自分の研究室に来るように声をかけてくれたところから、運命とも言える研究テーマに出会うことになります。
名古屋大学の平田教授から与えられた研究テーマは「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」であり、当時、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題でした。下村博士は、研究に没頭し、10か月後の1956(昭和31)年2月に、努力が実を結び、「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功し、この研究がノーベル賞受賞につながる研究となります。
下村博士は、長崎大学の安永教授、名古屋大学の平田教授がいなければ、自身のノーベル賞受賞はあり得なかったとして、生涯、感謝の意を表し続けました。
研究者としてのひたむきな向上心、恩師から与えられたヒントや研究テーマの中に“天の声”を聞こうとする姿勢を持ち合わせていたのが、下村博士だと言えるでしょう。
2018年に90歳でその生涯を終えた同博士でしたが、2021年、母校の長崎大学薬学部に下村博士の銅像が建立されました。なお、下村博士がノーベル賞を受賞した2年後の2010年には、母校にあたる長崎県立諫早高校に同博士の銅像が建立され、招待を受けた下村博士も銅像除幕式に参加。同校の生徒たちにも熱いメッセージを送りました。
「長崎とそこでの学生生活が自分の原点であり、故郷である」と話していた長崎や長崎大学には、下村博士を形成せしめたさまざまな“財(たから)”が凝縮しているのかもしれません。
(下村脩博士の言葉) 思わぬ偶然を引き寄せることができたのは、少しの失敗は気にせず、諦めずに努力したためである。試練には何度となく直面したが、私は逃げることは考えなかった。逃げることができなかったといってもいい。
<関連する場所> 下村脩名誉博士顕彰記念館(長崎大学薬学部) 長崎県立諫早高校(下村脩博士銅像)