この外国人がいなければ、日本の明治時代は迎えられず、その後の近代化も大幅に遅れただろうと言われる人物がいます。それが、「トーマス・ブレイク・グラバー」です。
“ジャパニーズ・ドリーム”の先駆者とも言われるなど、激動期の日本にいち早く目をつけ、日本に移住するという選択をしたことで、莫大な成功を治めた外国人だと見られがちですが、実はその生涯は波乱に富んでいます。
1838年、スコットランドで、沿岸警備隊の一等航海士である父・トーマス・ベリー・グラバーと、母・メアリーの間に、8人兄弟姉妹の5番目として生まれました。
1859年には上海にあるジャーディン・マセソン商会という貿易会社に就職します。同年、まだ開港して間もない日本の長崎に移り、幕末の日本での生活が始まりました。また、その2年後には、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。日本の特産品の生糸や茶を輸出するビジネスを始めます。
1863年には長崎湾を見下ろす丘の上に、現在は長崎の観光名所としても知られる「グラバー邸」を建てました。同邸は、日本最古の木造洋風建築として国の重要文化財にも指定されています。
グラバーが活躍した当時の日本は、まさに幕末の動乱の時期でした。
1863年に8月18日の政変が起きると、欧米の貿易商人たちは西洋の武器を薩摩・長州・土佐などの藩に輸入販売を積極的に行うようになります。
グラバーも扱い商品を軍艦・武器・弾薬などに変えてそれらを輸入販売しました。武器販売で倒幕、明治維新を後押ししたと言われるグラバーですが、佐幕派の藩や幕府にも武器を販売していたという説もあるようです。とはいえ、グラバーは、武器販売を通じて亀山社中(かめやましゃちゅう)の坂本龍馬をはじめ、大村益次郎、伊藤博文ら長州藩士、五代友厚、森有礼ら薩摩藩士たちとの交流がありました。他方、薩摩藩からの依頼で、五代友厚、森有礼、寺島宗則、長澤鼎の海外留学や、伊藤博文、井上聞多らを含む“長州五傑”のイギリス留学の手引きも行っています。
なお、私生活においても、五代友厚の紹介で日本人の妻・ツルと結婚しています。
そのようにグラバーは、幅広い人脈と武器販売ビジネスの成功により、幕末から明治となる日本の転換期にさまざまな事業を展開しました。中でも、西洋の近代的な施設・設備導入に関するノウハウがあり、豊かな海外との取引経験を買われたグラバーは、政府が関わる事業にも関与し、日本の近代化に具体的に貢献しました。
例をあげると、「日本で初めての蒸気機関車アイアン・デューク号の試験走行成功」「大規模な製茶工場の建設」「高島炭鉱開発」「大型船の修理ができる近代的ドック・小菅修船場建設」「明治新政府のための造幣機械輸入」「キリンビールの前身ジャパン・ブルワリー・カンパニー設立(日本初のビールが誕生)」などがあります。
こうした事業を手掛けたグラバーでしたが、しだいに武器販売が下火となり、資金繰りに苦しんだグラバー商会は、1870(明治3)年に破産することになります。
それでも日本を去ることはなかったグラバーは、高島炭鉱の経営者として日本に留まります。後に、三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収すると、炭鉱の国際取引に詳しいグラバーはその所長となり、1885年以降は三菱財閥の相談役にもなりました。
莫大な利益を得た自身の会社の倒産などを経験しながらも、日本に留まったグラバーは、母国英国に戻ることなく、長崎から移った東京で、73歳の生涯を閉じました。
長崎の観光名所としてひときわ光を放つグラバー邸やグラバー園ですが、単にそれらを見るだけにとどまらず、グラバーという人物の生き方や、それを可能にさせた交流都市・長崎に秘められた価値や魅力を再認識していきたいものです。
(グラバーの言葉) 幕末に長州、薩摩、肥後、肥前、宇和島の各藩とは何十万、何百万両の取引をしたが、賄賂は一銭も使わなかった。これは、賄賂をふところに入れるような武士は一、二の例外を除いて一人もおらず、みな高潔かつ清廉であったためで、賄賂をしたくともできなかった。このことはぜひ特筆大書して後世に伝えていただきたい。 (産経新聞 平成25年7月4日の記事より引用)
<関連する場所> グラバー邸 亀山社中記念館