‟分断の痛み” 抱き続ける長崎
長崎は、その地理的・地形的な特徴に加え、鎖国時代にも他国との交易が許されたという時代的な特権から、日本の他の県や地域には見られない独自の交流・融合文化を形成してきました。
しかしながら、その一方で、世界の国や地域が分断されたことのよる“人類史上経験したことのない痛み”を広島とともに経験した市であり県でもあります。
1945年8月9日午前11時2分、長崎市の松山町171番地、現在は平和公園の原子爆弾落下中心地碑が建てられている場所の上空500メートルで原子爆弾(=原爆)がさく裂し、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊したと言われています。
その原爆の恐ろしさを象徴する被害の1つとして、爆心地から600メートルの距離にあった長崎医科大学(現・長崎大学医学部)や附属医院は、講義や診察中であった教官・学生・看護婦・事務職員ら合計896名が犠牲になっています。
平和を具現する『交流・融合地域』へ
原爆投下直後から、その中の物療科学教室で助教授を務めていた永井隆博士は、妻が爆死し、自らも被爆し深刻な症状を抱えながらも被爆者の治療にあたりました。その後、被爆による原爆症で苦しみ寝たきり生活になりながらも、自らが「如己堂」と名付けた畳2帖一間しかない家に子ども2人と暮らし、執筆活動を行いました。そこから、「この子を残して」や「長崎の鐘」などの優れた作品が生まれ、人びとに深い心の痛みと感動を与えたことを通し、ヘレンケラーやローマ法王特使らが如己堂の博士のもとを訪れました。さらに、原爆投下以前に永井博士と同じ物療科学教室で助手を務めていた秋月辰一郎医師は、被爆者の治療を行った記録をまとめた「長崎原爆記」や「死の同心円」を執筆し、被爆の実態を医師の立場から世界に伝え、衝撃を与えました。
交流・融合の先進地であり続けた長崎が、こうした世界の分断による最も深刻な悲劇を通過せざるを得なかったという事実は、長崎が世界に、“誇りを携えた交流・融合”こそが世界に恒久的な平和をもたらし続けることを示す使命があるからだとも言えます。
原爆の被爆地として世界に記憶されている「ナガサキ(NAGASAKI)」。その長崎は、分断による痛みを世代を超えて継承しつつ、持続可能な平和を実現する地として、これからも「誇りをたずさえた交流・融合が行われていく先進地」であり続けるでしょう。
画像㊤=原爆による被爆当時の長崎医科大学(1945年) 画像㊦=グラバー園から見た長崎港と稲佐山