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長崎ならではの、永井隆との“濃い”時間をつくる。

永井隆という人物を知る上で、病床に付しながら3人の子どもたちを育て続けた「如己堂」(にょこどう)、永井博士の生い立ちから知ることのできる「長崎市永井隆記念館」は欠かすことができないと言えるでしょう。

加えて、博士が原爆投下時にも勤務していた長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)も、博士を知る上での重要なスポットです。

1945(昭和20)年8月9日11時2分、長崎市上空で人類史上2発目の核兵器が投下されました。長崎大学医学部の前身であった「長崎医科大学」は、爆心地からわずか500mの場所に位置し、壊滅的な被害を受けます。しかし、そのような凄惨な状況の中にあって、わずかに生き残った大学関係者たちは被爆者の懸命な治療にあたりました。

長崎大学・坂本キャンパス内にある長崎大学原爆後障害医療研究所の「資料展示室」では、被爆直後の救護・調査活動を行った永井隆博士や調来助教授らの紹介のほか、長崎医科大学附属医院の被害状況を写真やパネルで説明しています。

また、故西森一正教授が被爆時に着用していた血染めの白衣の実物や日本映画新社「原爆の長崎」の記録映画(15分)を上映しており、自由に見ることができます。さらに、長崎の原爆が人体に与えた医学的影響についてパネルで詳細に説明しています。パネルは日英併記です。

長崎市の名誉市民第1号に選ばれ、国会でも表彰された永井博士は、自らの体をしだいに蝕(むしば)む原爆症と闘いながらも、病床から『原子病概論』『長崎の鐘』など原爆の悲惨さと平和への願いを込めた数々の著書を発表しました。

博士が書き記した作品を読んで感動した多くの人たちが、見舞いのため博士が暮らしている2畳一間の「如己堂」を訪問しました。天皇陛下のお見舞いを受け、ローマ教皇も特使を派遣し、ヘレン・ケラーも訪問しています。

今も姿をとどめるこの「如己堂」には、毎年多くの人が訪れます。被爆後、復興途上にあった長崎市民の精神的支柱となり、日本国民や世界に、愛と平和を訴えた永井博士のメッセージは後生に受け継がれています。

1951(昭和26)年5月1日、博士は長崎大学医学部附属医院でその生涯を終え、5月14日、長崎市葬が執り行われました。

一方、永井博士は、原子野を「花咲く丘」にしようと、1948(昭和23)年、九州タイムズ社から贈られた5万円をもとに、桜の3年苗木1200本を山里小学校、純心女子学園、浦上天主堂、病院、道路への植樹用として寄贈しました。

この桜の木のほとんどは、今では代替わりしてしまったものの、 今も「永井千本桜」と呼ばれ、春になると花を咲かせ長崎市内を彩っています。

山里小学校にある桜は、永井博士から寄贈された50本の苗を「永井坂」を中心に植えたものが土台になっています。ただし、博士からの寄贈による苗で、現在も生き残っている桜はそう多くはなく、今では永井桜の2世が「如己の会」によって植樹され、新たに育っています。

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