長崎大学を語る時に、この人を外しては語ることができないと言われる人物がいます。その一人が、「ポンペ」という呼称で語り継がれるヨハネス・ポンぺ・ファン・メーデルフォールトです。“近代西洋医学教育の父”と言われ、長崎大の発足の起源ともなったポンぺについて見ていきます。
長崎大の出発点とされる「長崎奉行所西役所医学伝習所」で、オランダ軍医だったポンぺが正式な教授として任命され、来日後、“医学の伝習”を開始した1957年11月12日が長崎大医学部の開学記念日に指定されています。それから約5年間、長崎に滞在したポンペは、1962年11月に日本を離れています。
長崎でのポンペは、物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えました。これはポンペがユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ医学そのままで、その内容は臨床的かつ実学的だったようです。最初は言葉の問題も大きかったものの、後になると授業は8時間にも及ぶようになったと言われています。また、長崎奉行所の役人たちが反対する中、医学教育に死体解剖は絶対に必要だと訴え続け、医学生全体のまとめ役でもあった松本良順を通し訴えが認められ、「日本初の死体解剖実習」を行いました。
さらに、ポンペは長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴え、「病院設立」の必要性を説いたので、幕府はこれに応え、1860年に養生所の建設を決定。翌年の1861年9月、「小島養生所」が開院しました。同時に医学伝習所がここに移転し、「医学所」として併設され、松本良順が初代頭取になっています。
1人で全科目を教えることのエネルギーもさることながら、ポンぺが教育において最も妥協を許さなかったのは、『医者としての心構え』であったと言われています。
この言葉のごとくに、遊郭丸山の遊女の梅毒の検査を行うなど、ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、きわめて民主的なものであったとされ、日本において民主主義的な制度が初めて採り入れられたのは、こうした医療の場であったとされています。
さらに、鎖国時代に外国との交易が許されていた特別な地であった長崎は、見方を変えると、その当時、日本で最も外国から感染症が入りやすい地でした。それゆえ、医学生たちへの講義でも「コレラ」の症状や危険性を説き、ポンペ自ら診療所に来た患者たちの往診にあたったというエピソードは有名です。
そのように、西洋医学を単なる知識としでだけでなく、医者の実体としての姿を通して語っていったことが、長崎から近代医学が動き出した原因になったことは間違いないようです。
後年、明治に入って、森鷗外がヨーロッパ留学中に赤十字の国際会議でポンペに出会い、日本時代の感想を聞いた時、「日本でやったことは、ほとんど夢のようであった」と語っていたとの記録があります。
想像の域を出ないかもしれませんが、鎖国制度で文明において遅れており、「医学」が確立されていない日本に対し、最初に「医学」「医者のあり方」を伝える役割を担うことになったポンぺは、まさに自身の日本での“使命”に向き合い、常に“無我夢中”ではなかったかと想像できます。
そしてその必死さが、長崎を皮切りに、日本全体へ近代医学の発展をもたらしたばかりでなく、その高度な医療行為を支える“専門医としての道徳観”を植え付ける役割も果たし、日本の医学や医療が高いバランス感覚を伴いながら発展してきた原因になってきたように思われます。
長崎大学や長崎市以外では意外に知られていない「ポンペの日本での実績」ですが、彼がいなければ、日本の医学が大きく立ち遅れていた可能性が高いことは、日本人として知っておく必要があるのかもしれません。
(ポンペの言葉) 「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」 (長崎大医学部に「銘板」として残されているポンペが長崎時代に残した言葉より)
<関連する場所> ポンペ会館(長崎大学医学部、坂本地区キャンパス1) 長崎(小島)養生所跡資料館 長崎(小島)養生所跡地