坂本龍馬は、1835(天保6)年、現在の高知県にあたる土佐藩で、6人兄弟の末っ子として生まれました。曾祖父の代に豪商から郷士となり、父親の八平は子どもたちを武士として厳しく教育したと言われています。
なお、龍馬は12歳の時に母親を亡くしています。その後は、3歳上の姉・乙女(とめ)が龍馬の母代わりになり、武芸にも秀でていた乙女は、文武両面で龍馬をサポートします。龍馬自身もまた姉・乙女を慕い続け、乙女に宛てた手紙は今も数多く残されています。
14歳になった龍馬は小栗流の武術を学び始め、さらに武芸を極めるために江戸に向かうことを決断します。1853年、19歳のとき、江戸に着いた龍馬は、北辰一刀流の千葉道場に入門し、剣術の修行に励むとともに、佐久間象山の私塾に通うなどして、海外に対する知識や視野を広げています。剣術修行を終え、土佐に帰郷した後は、父・八平の死去もあり、その後の自身の身の振り方について思い悩みますが、再び江戸に行き、千葉道場でさらなる剣術修行に励み、千葉道場で塾頭を務めるなど、剣術を極めた立場で土佐に戻ります。
1861年、日本各地で尊王攘夷運動が高まる中、龍馬の幼なじみであり、土佐藩の出身で江戸留学中であった武市半平太(瑞山)は土佐勤王党を結成。これに賛同した龍馬も一員として加わりました。やがて長州藩の尊王攘夷運動の中心にいた久坂玄瑞に刺激を受け、1862年2月、龍馬は脱藩を決意します。
脱藩後の坂本龍馬は、その後の運命を決定づけるような人物と出会います。それが、当時、幕臣であった勝海舟でした。もともとは、海舟の暗殺まで考えていたと言われる龍馬でしたが、開国後の日本のあり方について先見の明を持ち、行動力を持ち合わせていた海舟に心酔するようになり、勝海舟の門下生になります。
その後、勝塾や海軍士官養成機関である神戸海軍操練所で勉強します。1864年、「神戸海軍操練所」が開設された1864(元治元)年、師匠の海舟の同伴で、長崎の地を訪れています。
しかしながら、1865年、神戸海軍操練所は閉鎖され、行き場をなくした龍馬は薩摩藩に保護され、再び長崎を訪れます。さらに同年、薩摩藩や長崎商人である小曽根家(こぞねけ)の援助を受け、日本最初の商社と言われる「亀山社中」を結成します。亀山社中は利益を上げる目的のほか、薩長の和解も目的としており、新しい時代を切り開く大きな役割を果たることになります。
具体的には、長崎に事務所を構えていたスコットランド商人「トーマス・グラバー」から、薩摩藩の名義で武器や軍艦ユニオン号を購入し、幕府に知られることなく、長州藩に届けました。このことが、犬猿の仲となっていた薩摩藩と長州藩の和解につながり、幕府を打倒する一大勢力としての「薩長同盟」を結ぶ具体的な土台となります。
さらに、1867年には、亀山社中を「海援隊」に改め、龍馬自身が隊長に就任しています。
しかし、同年11月15日、潜伏していた京都四条河原町の近江屋で中岡慎太郎との会談中に襲撃を受け、龍馬は31歳という若さで、突然生涯を終えます。
坂本龍馬は人気ほど活躍していない、などと言われることも多く、実際に、明治維新の実現に貢献したとされる『維新十傑』の中にも入っていません。
しかしながら、龍馬が築いた“人脈”どうしが、龍馬を通して具体的に出会い、深く交流し、そこから日本を動かす人間関係に発展していった事例を否定することはできません。
また、その“龍馬の交流の中心”には『長崎』があったという事実も、否定することができない日本の歴史として深く刻まれています。
(坂本龍馬の言葉) 世の人はわれをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞしる
<関連する場所> 風頭公園(かざがしらこうえん) 亀山社中 グラバー邸 長崎歴史文化博物館