日本の国立大学の学長という職責は重要であり、社会的にも影響力を認のある立場ですが、学長の任期を終えた後にも社会への影響力を待ち続ける人は多くないようにも見えます。地方の国立大学の学長であれば、なおさらのことかもしれません。
ただし、元長崎大学学長の土山秀夫氏においては、長崎が生み出した「世界平和」の象徴的な人物として、むしろ学長退任後の歩みが、長崎の平和活動の礎(いしずえ)となり、長崎と世界平和を結ぶ取り組みへとつながっています。
1925(大正14)年、長崎市で生まれた土山氏は、1945(昭和20)年8月9日、午前中は病気療養中の母親に会うために長崎を離れていましたが、夕方に長崎に戻ったことで、残留放射能で被爆しています。その後、1952(昭和27)年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)を卒業。1959年から2年間、イリノイ大学(アメリカ合衆国)客員研究員を務め、1969年、長崎大学医学部教授となりました。1988(昭和63)年~1992(平成4)年まで、長崎大学第10代学長を務めています。
なお、従来の反核平和運動が、政党や労働組合、宗教団体、科学者団体など、団体主導型であったことに違和感を感じていた土山氏は、学長退任後、長崎市の理解も得ながら、思想信条党派を超え、一市民として参加できる草の根運動が必要だとして準備を行い、2000(平成12)年、「核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ」を開催しました。
国内外の著名なNGOリーダーらが参加した同集会には、延べ人数で5000人以上が参加し、長崎と世界平和とをつなげる新たな出発点となりました。
さらには、日本を代表する知識人や文化人らで構成される「世界平和アピール七人委員会委員」に選任されるなど、長崎という次元に留まらない、まさに世界平和の顔とも言える存在となりました。
永井隆博士らと並ぶ、長崎市名誉市民(6人目)にも選ばれた土山氏は、翌年の2011年(平成23年)名誉市民年金全額をもとに、土山秀夫平和基金を創設するなど、惜しみなく、その生涯を平和のために費やそうとしました。
一方、世界平和を求めるがゆえに、それが進まない現実に苦悶する日々でもありました。
2016年に秋月平和賞受賞の記念講演では、オバマ政権でさえ核軍縮が思うように進まない点について、「軍、産業、大学の3者が巨大権力を維持しているからだ」と強い言葉で批判しています。
2017(平成29)年、惜しまれながら、その生涯を終えた土山氏でしたが、とくに、学長退任後の歩みは、長崎の平和への取り組みが世界平和活動と連動していく新たな起点となりました。
また、その取り組みは、世代を超え、若者たちにも支持されながら、新しい世界平和への潮流をつくり出そうとしています。
(土山秀夫の言葉) 駅から一歩出ますと、まさにこの世の地獄としか思えないような光景が展開されておりました。私たちはその頃すでに(医学徒として)いろんな人間の死というものを目の当たりにしておりまして、少々のことでは動じないはずなんですけれども、さすがにこの光景だけは、終生忘れることができません。 (「長崎医科大学と被爆を語る」講演会より)
<関連する場所、および組織> 長崎医科大学(現長崎大学医学部) 核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ 世界平和アピール七人委員会



