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大浦 慶(おおうら けい)

優れた国際感覚や商才により、明治時代を切り開いた“陰の功労者”と言われながらも、全国的にはあまり知られていない女性がいます。それが大浦慶(おおうら・けい、通称=お慶)です。

大浦慶(=以下、お慶)は1828(文政11)年、長崎の油屋町で油商(あぶらしょう)を営む大浦佐平次の娘として生まれました。大浦家は250年も続く老舗でしたが、1843(天保14)年、お慶が16歳の時に発生した大火で大損害を受けます。その上、長崎では海外産の油がしだいに流通するようになってきたため、家業が傾き始めます。

その後、父も亡くしたお慶は、家の再興を決意します。一度は結婚を前提に、蘭学修行に来ていた天草の庄屋の息子を婿養子に迎えましたが、彼女は彼に商売気がないことを見抜き、祝言(しゅうげん)の翌日に手切れ金を渡して離縁したとも伝えられています。以後、お慶は再婚せず、商売に没頭します。
傾いている家業を継いだお慶が着目したのは、国内取引ではなく「日本茶の海外輸出」でした。

当時のヨーロッパやアメリカでは、紅茶よりも緑茶やウーロン茶が好まれていました。また、世界の主要な茶産地であった隣国の中国は、アヘン戦争や太平天国の乱といった戦乱により、生産量が激減していたという国際情勢がありました。お慶はこの状況を、日本茶を海外に売り込む絶好のチャンスと捉えたのです。
こうしたお慶の発想は、日本で最も国際的であった当時の長崎で生まれ育ったことに大きな影響を受けているのかもしれません。

1853(嘉永6)年、お慶は長崎港の出島に在留するオランダ商人・テキストルを通じて、肥前の嬉野茶(うれしのちゃ)の見本をイギリス、アメリカ、アラビアの三国へ送りました。
その3年後の1856(安政3)年、イギリス人商人・ウィリアム・オルトがお慶のもとを訪れ、なんと12万斤(約72トン)という大量の注文をしました。お慶はこの注文に応じるため、九州内の茶産地を駆け回り、買い付けに奔走します。
最終的に、1859年(安政6年)に長崎港からアメリカへ向けた最初のお茶の輸出船が出航し、お慶は茶商として大成功を収めました。

安政から慶応にかけての約10年間は、大浦家にとって「黄金時代」となり、彼女は30代半ばにして巨万の富を手にする“女豪商”となります。
お慶は、その莫大な富を、新しい時代を創ろうとする尊王攘夷派(そんのうじょういは)の志士たちへの資金援助に使ったと言われています。

中でも、坂本龍馬が長崎で結成した亀山社中にとっては、お慶は最大の理解者であり、スポンサーでした。亀山社中は薩摩藩などのほか、長崎の豪商からも援助を受けており、お慶はその筆頭でした。
ほかにも、お慶の広大な屋敷には、大隈重信や松方正義など、後に明治新政府で重要な役割を果たす多くの若者たちが居候(いそうろう)し、お慶の援助を受けました。
しかしながら、明治維新後は、茶の輸出の中心が「横浜」へと移り、お慶による長崎や九州産の茶の輸出業は縮小していきます。

さらに、1871(明治4)年、お慶に追い打ちをかけるような事件が起こります。旧熊本藩士の遠山一也によるタバコ輸出取引の詐欺事件に巻き込まれ、保証人としての責任を負わされ、1,500両というとてつもない賠償金を支払わされます。これにより、広大な屋敷を含め、一代で築いた財産をすべて失いました。

ところが、1879(明治12)年、世界周航の途次で長崎に寄港した元アメリカ大統領ユリシーズ・グラント将軍が主催した艦上パーティーに、お慶は長崎県民の中で唯一の女性として招待されます。
また、晩年の1884(明治17)年、お慶は病に伏してしましたが、当時の農商務大臣であった西郷従道より、日本茶輸出への大いなる功績を認められ、茶業振興功労褒賞と功労金20円が授与されました。
その一週間後、お慶は57歳で波乱万丈の生涯の幕を閉じます。実はこの時、お慶の手元に借金は一円も残っておらず、すべて返済し切っている状態でした。

商才や国際的な感覚に富み、日本の強みである「茶」を武器に豪商にまで上り詰めたお慶。彼女が龍馬のような志士らとの交流を切らさず、彼らを支え続けた理由は、お慶が自分の商売を超えて、外国と堂々と自由に交易できる“日本のあるべき姿”を思い描き続けていたからのように思えてなりません。

(大浦慶の言葉)※小説から引用したフィクションです。
「空も海もつながっとるけんね。いつか私も船を持って、世界を巡りたか」
 ~作家・朝井まかて著、小説『グッドバイ』(第11回親鸞賞受賞)から~
<関連する場所や組織>
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大浦慶 居宅(移築)
大浦家 墓所(八坂神社)
大浦慶 生誕200周年記念事業
オルト邸

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